魂心屋の祈り

 

人間とは人生を欲望により左右される生き物である 。

 

特に男は、欲望の中でも本能と分類される欲求により人生を左右される。

 

男は四つの本能を持っている。

まずは性欲。男は自分の精子ティッシュか女かどちらに放出するかで人生の選択を行う。

 

二つ目は食欲。男は冷蔵庫に保管してある食料を他人に奪われただけで、いとも簡単に長年の友人の命すら時には奪う。

 

三つ目は睡眠欲。男はたかが五分の睡眠と在校年数の増加を天秤にかけた時、一瞬の微睡みを選択する。

 

 

 

私はキリスト教徒ではなく、神の存在を微塵とも信じていないが、もしこの世界に神と呼ばれる創造主が存在するなら、間違いなく人間を雌雄に分けたのは失敗だったと嘆くだろう。

 

 女体に精子を放出したいがために己の生活費をドブに捨て、飯のために親友を殺し、一瞬の眠りで人生をも捨て去る。一時的な快楽に支配され、常に人生を賭け続ける。男とは、死ぬまで永遠にギャンブルを続ける生き物なのだ。

 

アダムが食うなと言われたのに食べてしまった禁断の果実こそがこの本能の正体という説もあるが、私は高校時代睡眠欲の効力によりキリスト教の勤勉を怠っていたため、真相を語ることはできない。

 

蛇は悪魔の化身と呼ばれている。

アダムを唆して禁断の果実を食わしたのもこの蛇である。

蛇はどう感じているのだろうか、この男のありさまを。

悪魔すら擬人化して発情し、犯してしまうような男の姿を見て、蛇は満足したのだろうか。

 

 

さて、4つ目の本能の説明をしよう。

 

神や悪魔をも犯して食ってしまう男であるが、彼らがただ一つ争いを行わずにいられる本能が存在した。

男がそれを求めるとき、普段なら行列の人間など皆殺しにしてしまう彼らが、大人しく自身の審判の時間をひたすら待つ空間が存在した。

それは絶対的な品物であり、男はそれを求め千にも及ぶ苦行を乗り越え、他の欲求を殺し尽くして到達する。

 

 

その本能とは、ラーメンだ。  

 

 

 

 

 

日本橋オタロードという空間がある。 そこに居座る住人は、いわば「キモオタ」と呼称される種族の皆様だ。

彼らは現実世界である大学や高校から追い出され、この街に逃げ込んだ。街はいわばキモオタ的な文化であふれかえっており、一般人がこの街を見るとおそらく魑魅魍魎の巣食う現世の地獄と見間違えるであろう。

 

そんなキモオタであるが、よく見て見ると実は彼らはさほど現実世界の男とはなんら大差ない生き物である。  

キモオタは毎日オタロードに通い、コンビニで親からもらった金でファミチキを買って貪り食い、自分より気持ちの悪いキモオタをツイッターに晒し、オナホールを求めて徘徊する。  

言ってしまえば、キモオタとはティッシュにのみ精子を出し続けてきた男の末路なのだ。

キモオタの120%は童貞もしくは素人童貞という科学的な調査を根拠としたデータが存在する。 そのデータからも分かる通り、ティッシュ以外に精子を出したいが自らの外見と性格ゆえに女体から逃げられ、自らも逃げ出した果てに行き着いた先がキモオタというメタモルフォーゼなのである。

 

 突然だが皆様はフライングダッチマン号をご存知だろうか?

オタロードとキモオタは、このフライングダッチマン号と乗組員の関係に非常に類似している。

フライングダッチマン号とは海の悪霊デイビィジョーンズが船長の幽霊船だ。ここの乗組員達はジョーンズと契約し、奈落に送られる代わりに100年間船で働くことを契約し、重労働を課されている。いつか解放される事を夢見て。

しかしその100年という途方もない年月の中で彼らの身体と魂は変質し、文字どうりフライングダッチマン号の一部となってしまうのだ。

「船の一部、船の一員」

 

オタロードの住人の囁きに耳を傾けると、実はこんな呪文が聞こえる。

彼らも途方もない年月をオタロードの中で過ごした結果、あの街の一部になってしまったのだ。

 

 

 

 今日もオタロードは哀れなキモオタで溢れかえっている。今も昔も変わらない。いつからでも彼らはそこに居たし、これからも居続けるのだろう。

 

この街は私があの衝撃的なラーメンと出会った日から何も変わっていない。彼らはそこに居て、そして私もそこに居た。

 

 

魂心屋というラーメン屋がオタロードに存在する。

学術的に分類すれば、「ラーメン科家系属横浜種」に該当するラーメン屋だ。

魂心屋に足を踏み入れたのは誰と初めてかは覚えていない。しかしその時私は奈落に送られる代わりに100年間の労働を義務付けられたキモオタであったため、同じく足を踏み入れた者もデイビィジョーンズと契約した者だったのだろう。

 

このラーメン屋を一言で表すなら「衝撃」の一言に尽きる。正直に言うと、間違っても美味と分類される類の味ではない。

 

一口一口、これまでかというほどキモオタ的な圧を感じるラーメン、こう言えば一番分かりやすいだろうか。

 

客層にもその味の効力が見て取れる。

補足だがキモオタにも様々な種族が存在し、ファッションオタク、イキリオタク、ドルオタ、アニ豚等々様々な種類に分類される。

しかしこの魂心屋に通う者は、間違いなくキモオタと分類される容姿性格の人間達なのだ。

 

私は初めここを目にした時、地獄かと思った。

キモオタが群れを成して、キモいラーメンを貪り食っている。なんなんだこれは。なんなんだこの有様は。

 

誰が言い出した訳でもなく、私達の中で魂心屋はいつしか「キモオタラーメン」と呼ばれるようになっていた。

 

 

このクソ気持ちの悪いラーメン屋について、私は最近気がついた事がある。ここに来て、この記事の本題に入る訳だ。どうでもいい与太話で右往左往したが、ここからが本題だ。

 

最近私は魂心屋のスープから声が聞こえるようになった。と言っても私の精神状態が異常という事がではなく、あくまで比喩的な表現である。

「どうかこの気持ちの悪いラーメンだけで済ませて下さい。どうか気持ち悪いのはこのラーメン屋だけで済ませて下さい。どうか地獄を生み出すのは、この空間だけにしてください」と。

 

この記事の読者なら一度はキモオタラーメンを食した事があるだろうし、客層のキモさは説明がいらないほどご存知だろう。しかし、今一度思い出してほしい。

このラーメンを食すキモオタの表情は、どこか安堵に満ちていなかっただろうか?

 

、、、、キモオタラーメンとは、キモオタのキモさを体現し、キモオタ達に気づかせ、そして彼らを救っているのだ。

しかし彼らはキモオタ故に自身の醜さの有様を見せつけられた所で変わりはしない。そして、キモオタラーメンもそれは重々承知だ。

しかし、この空間はある種刹那的な、「どうする事も出来ない事を俺は知っているし、お前も知っている」という、ある意味キモオタ達にとって心理に迫った空間を形成している。キモオタラーメンの祈りは通じず、キモオタ達の欲望も叶わない。だがそんな問いかけをしてくれる空間は、このラーメン屋しか存在しない。

 

 

蛇がアダムに食べさせたのは禁断の果実でもなく、知恵の実でもなく、きっと魂心屋の固め濃いめ太麺のラーメンだったのだろう。

 

 

本能に支配されるな。

誰かにとって「どうしようもないこと」を受け入れ

誰かにとって「どうもならないこと」をどうにかしたい。

 

蛇はきっと優しかったのだろう。これは蛇の人間に対する慈悲であり、魂心屋の祈りだ。

 

 

そしてこの祈りこそが、キモオタラーメンの美味しさの秘訣である。